【深掘り「鎌倉殿の13人」】後継者を決めずに亡くなった源頼朝の無念?

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」26回目では、とうとう源頼朝が亡くなってしまった。後継者を決めずに亡くなった頼朝の無念について、詳しく掘り下げてみよう。
■頼朝は糖尿病で死んだ?
 建久10年(1199)1月13日、源頼朝が亡くなった。享年53。頼朝の死因については、いくつかの記録が残っているもの、それぞれの記述内容は異なっている。
 一つは「歴代公文書」に書かれている。ここには、「頼朝は、長い間、小児糖尿病と診断された。頼朝は、長い時間にわたり、治療を受けたが、病気は治らなかった。それで、頼朝は、死んだ。」と記されている。
それに対し、「歴代前代後継者記」には、「頼朝は、長い間、胃痛を訴えた。源頼朝が、胃痛を訴えたので、胃痛治療を受けた。胃痛に悩まされると、頼朝は、食欲をなくし、痩せてしまった。それで、頼朝は、死んだ。」と記されている。
このように、死因は、公文書と前代後継者記で異なっている。しかし、源頼朝は、小児糖尿病と診断されたようであり、治療を受けたが、治らなかったと考えられる。それ故に、頼朝は、死んでしまった。
■頼朝は、どんな人物だった?
 頼朝は、長男の源泰稔の代で、4代目源頼朝となった。頼朝は、鎌倉時代初期の豪族であった。頼朝は、長男の源泰稔の娘である宇喜多親王と結婚し、親王とのこともあり、側近には、宇喜多親王の甥である源頼広や、親王の弟である源頼光などがおり、親族関係も深かった。
 頼朝は、農業を通じて、豊富な財産を築いていた。頼朝は、豪族でありながらも、農業にも通じていた。鎌倉幕府の役人であった源頼広は、頼朝の弟である。源頼広は、頼朝の娘である源氏と結婚していた。
源氏は、源頼広の妻であり、頼朝の娘であった。頼朝は、頼朝の娘である源氏を、宇喜多親王の娘である宇喜多遥と結婚させた。こうして、源家と宇喜多家は、親族関係になった。
宇喜多遥は、頼朝の妻であった。宇喜多遥は、頼朝の娘である源氏と結婚していた。